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2013

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (2)

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前回の続き。パッチがあたってここからVer1.2.2です。

1485年~1520年 スモレンスクの征服とリトアニアの反撃

1486年、戦争が続くクリミア・ハン国と黒羊朝
1486年、クリミア・ハン国とコーカサスの黒羊朝の戦争が続く最中、クリミア半島に植民地を持つジェノバがクリミア・ハン国に宣戦布告、その同盟国であるリトアニア大公国も、クリミア・ハン国 & オスマン帝国との戦争状態に入った。
モスクワ大公国にとっては、異教徒異民族のクリミア・ハン国よりも同じキリスト教徒で東欧の大国であり、ルーシの王を狙うリトアニアの方が、遥かに脅威であった。そのため、モスクワはこれをリトアニア攻撃のチャンスとみて、軍の準備を開始する。

開戦の準備が進む中、1487年にプスコフ公国の併合が完了した。

1488年、リトアニアに侵攻するモスクワ軍
1488年、リトアニア-クリミア戦争が、一進一退ながらもリトアニア優勢に進む中、モスクワ軍4万は突如スモレンスク一帯の割譲を求めリトアニアに侵攻した。リトアニアの危機に対して、同君連合であるポーランドと同盟国であるジェノバが対モスクワ戦に参戦する。

7月、モスクワ軍はキエフでクリミア軍を撃退したばかりのリトアニア軍を襲撃、緒戦の勝利を収めた。しかしこの事態を受けて、リトアニア・ジェノバとクリミア・ハン国・オスマン帝国間の和平が成立、リトアニア連合軍はモスクワ軍のみを相手に戦うこととなった。

モスクワ軍は各個撃破を目指し敗走するリトアニア軍をバルト海まで追撃するも殲滅に失敗。
10月、集結した4万を超えるポーランド・リトアニア連合軍がヴェンデンにて、後退するモスクワ軍2万を補足しこれを打ち破った。

1489年、モスクワ領内で反撃を受けるリトアニア軍
敗れたモスクワ軍は態勢を立て直すため内陸深く撤退、そうはさせじと追撃する連合軍、両者は最終的にコストロマで対決する。長期にわたる遠征で消耗した連合軍は、逆に領内で徐々に勢力を立て直していたモスクワ軍に破れ、立場が逆転。遠征軍はロシアの地より帰ることが適わず、ウラジミールにて降伏した。

勢いに乗ったモスクワ軍は再度スモレンスクを目指し侵攻を開始、リトアニア・ポーランド側も軍を再建し両者はたびたび激突するも、お互いに決定的な打撃を与えることが出来ず、消耗戦と化した。
1490年12月、スモレンスクの要塞が陥落したことを受け改めて和平の席が設けられ、モスクワ側の要求どおり同地の割譲を条件に和平が結ばれた。しかし、敗れたリトアニアはスモレンスク奪回とモスクワへの復讐を誓い、これが後の第2次リトアニア戦争へと繋がっていくことになる。

1497年、第1次カザン・ハン国遠征
1496年、戦争の消耗が癒えると、モスクワ軍は次いで東方のカザン・ハン国に侵攻した。この時代、カザン・ハン国の目は中央アジア方面に向いており、西方への注意が弱くなっていたこと突いた形だった。この戦争では、Druzhina Cavalryに代わって採用されたStratoti Cavalry、ならびに攻囲戦用に火薬を用いた新兵器大砲が初めて実戦へと投入された。

カザン軍は開戦早々に壊滅、上層部には楽観的な雰囲気が漂うも、中央アジア方面から突如、見たこともない旗をなびかせた4万の大軍が出現との報に緊張が走る。軍勢は中央アジアの雄、遥か南サマルカンドを首都としペルシャを支配するティムール朝のものであった。ティムール軍の熾烈な攻撃によりタタールのくびきの悪夢がよみがえるも、本国から2千kmも離れた土地での戦いとあって遠征軍は次第に兵力を失っていき、ヴェトルガにてモスクワ軍に敗れた。

1499年、第1次カザン・ハン国遠征和平。ティムール朝の国土は見えない。
戦争は最終的に1499年4月、カザン・ハン国ら諸侯がシンビルスクウドムルトに対するモスクワの支配権を認めることで終結した。この戦いは、大公国にとって中央アジアや東方の情報が国家の生存に必要不可欠であることを強く意識させることとなった。

1499年、大デンマーク成立
同年12月、バルト諸国を震撼させる大きな出来事が起きる。同君連合であったカルマル同盟の強化、すなわち、デンマークによるスウェーデンの併合である。
強大なバルト帝国の出現は、主要な港湾がバルト海のみに限られる大公国にとっても、大きな脅威であった。しかし既に西でリトアニア、東でモンゴル諸侯を敵に回している大公国にとってさらなる戦いは現実的ではなく、表面上友好的な関係を模索することになる。

1504年、早くも伝播した東方の地図
遊牧民からの情報収集を進めた結果、1500年代に入り東方や中央アジア、さらにはインドや遥か東、中国までの情報がもたらされた。
シルクロードを通して届く交易品の数々は、遊牧民が支配する草原や砂漠の遥か先、中国やインドといった地域で産出されているという。この情報を受け大公国では、ユーラシア大陸を東に進み、アジアと直接交易することが考えられるようになった。

1504年、第2次カザン・ハン国遠征
1504年7月、カザン・ハン国とクリミア・ハン国、シビル・ハン国が互いに争うのを見た大公国は、早速第2次カザン・ハン国遠征を開始。前回の戦いの影響か、ペルシャにて激しい反乱に見舞われているティムール朝は直接の援助を行わず、僅か10ヶ月ほどの戦いでカザン・ハン国全土がモスクワ軍の占領下となった。

1505年、モスクワ軍によるサマルカンド遠征
しかし、同盟の盟主であるティムール朝は、大公国の支配を承認せず、周辺遊牧民に散発的な攻撃を続けさせることで、長期戦の末モスクワ側が撤退するのを目論んだ(戦勝点不足で要求飲まず)。
そこでモスクワ軍は、対立する遊牧民国家であるノガイから軍の通行許可を取り付け、長躯ティムール朝の本国に打撃を与えることを目的とする、初となる長距離遠征を開始した。
バルフ近郊でティムール軍を打ち破ったモスクワ軍は、そのまま首都サマルカンドを包囲、1507年にはこれを攻略・略奪した。
打撃を受けたティムール朝は、モスクワによるペンザ、ペルミの支配を承認。また以後カザン・ハン国の支援を行わないことを条件とする和平条約に調印、ここに遠征は完了した。この遠征は、実際の戦果以上に、東方に関する知識を大公国にもたらすこととなった。

二度の遠征の結果、カシモフに続き多数のタタール人やウラル人の住む土地を支配下に置いた大公国ではあったが、これら地域の住民は皆イスラム教徒であり、正教会を国教とするモスクワの支配に対しての反発は根強かった。同化政策も上手くは行かず、国土が拡大する一方、政府はその扱いに頭を悩ませることとなる。

1513年、第2次リトアニア戦争の勃発
遠征終了から間もない1509年、今度はリトアニアとの間にポラツクを巡る境界紛争が起きるなど、徐々に西方で不穏な空気が流れ始めた。

1510年代に入り、モスクワ大公国では政治的危機により国内が不安定となり、またタタール人らによる反乱も頻発。政府はその対処に追われ、兵士の補充も滞り始めていた。
1513年10月、この機を狙ってスモレンスク奪還を狙うリトアニアがモスクワに宣戦布告、4万のリトアニア・ポーランド連合軍がロシアの地へとなだれ込んだ。モスクワ軍は奇襲により緒戦で1万もの損害をこうむる事となった。

第2次リトアニア戦争の推移(1514年)
第2次リトアニア戦争の推移(1516年)
第2次リトアニア戦争の推移(1517年)
1514年4月、トルジョークにて態勢を立て直したモスクワ軍は連合軍と交戦、双方4万ずつがぶつかる決戦となるも、モスクワ軍は損害過多のため敗退。この後、追撃するリトアニア軍は2万のみとモスクワ軍を下回ったが、モスクワ軍はこれを返り討ちにすることにも失敗。以後、モスクワ軍は幾度も態勢を建て直し、数で勝る攻撃を仕掛けるも、戦意旺盛な連合軍にことごとく敗れ続けた。
(リトアニアも東方グループだから大差ないと思ったんだけど・・・ナンデコンナカテナイ?National Idea?と思いつつ、ずるずると敗北を繰り返し停戦の機会を逃すプレイヤー。後々考えると、マンパワー不足で傭兵いっぱい入れてたし、厭戦で士気下がってたからなおさら負けてたんだな・・・。)

1516年、西ヨーロッパよりスイスにてカトリック教会の腐敗に抗議し、宗教改革を訴えるプロテスタントが誕生、大混乱が起こっているとの報が入る。これは後にバルト諸国にも大きな影響をもたらすのだが、当時のモスクワ大公国は遠方の事件に関心を寄せるどころではなかった。

1518年、第2次リトアニア戦争。ポーランドとの白紙和平
1518年、リトアニアはスモレンスクやプスコフといった国境地帯の広大な領土の割譲を要求する和平案を提示、モスクワはそれを拒否。一方、長引く戦争はモスクワだけでなくリトアニア・ポーランド両国にも重い負担となっており、同年5月、ついにポーランドが戦線を離脱した。ポーランドでは長引く戦争から反乱が多発しており、これ以上の戦争継続は難しくなっていた。

1519年、大公の死とリトアニアの要求
残されたリトアニア軍は僅か1万5千、往時のモスクワ軍であれば取るに足りもしない相手であった。しかし、それでも壊滅状態のモスクワ軍は勝利を収めることが出来なかった。

大公Vasiliy IIIは悪化する戦局をどうすることも出来ないまま、失意のまま孤立したモスクワで死去、1519年10月のことであった。Boris I Rurikovich (3-3-1) が後を継いだ。

1519年11月、敗戦により国土の多くを失ったモスクワ大公国
新大公の即位から1ヵ月が経った同年11月、ついにモスクワ大公国とリトアニア大公国の間に和平が成立し、6年に渡った第2次リトアニア戦争は終結した。この講和条約は、モスクワをルーシ王としての地位から引き摺り下ろす、以下のような屈辱的なものであった。
  1. スモレンスクの返還
  2. トヴェリニジニ・ノヴゴロドヤロスラヴリの3公国の独立
  3. ノヴゴロド公国に対する宗主権喪失
  4. 賠償金の支払い
以後モスクワ大公国では、敗戦からの復興に長い時間が費やされることとなる。

(判断ミスです。何とか逆転できると思って、結局とんでもなく損害を積み重ねてしまったorz 講和の条件は、リトアニアみたいな大国に取られるよりも、重要地域とはいえ取り戻しやすい小国にして、復興後即再征服で再起を図ろうという計画。
途中で投げ出したくなったけど、ロシアだからこれぐらい復興余裕なはず(虚ろ目・・・とはいえ、成長が20年は遅れたか。)


>>第3回 1520年~1552年 ルーシの再統一とロシア建国

>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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