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2013

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (4)

CATEGORYゲーム
前回の続き。ロシア建国後から。

1552年~1575年 ポーランド-リトアニア戦争とステップへの拡大

1553年の西ヨーロッパ。オランダは僅か2プロヴィンスの小国である。-01-07
建国後のロシアは、引き続き軍の整備を進めつつ、まずリトアニアの支配下にあるロシア人地域の解放を第1の目標としてチャンスを窺う。

1553年、西ヨーロッパ低地地方の一部地域が独立、オランダが建国される。しかし未だ僅かな国土のみの小国である。
1554年、かねてより進められていたリヴォニア騎士団の併合が完了する。リヴォニア一帯では正教への改宗ならびにロシア化が進められる。
1556年、ノガイカザン・ハン国の残る国土を併合。同地はロシアも進出を狙っていた場所であり、以後ノガイとは敵対関係となる。

1557年1月、ポーランド-リトアニア戦争の外交関係
ロシアが開戦の機会を見出せないまま4年の時が経過。1556年4月Dmitriy VI Wredeが死去、ロシア建国を宣言したツァーリの在位は短く、僅か10年ほどであった。後継者のVasiliy Wrede (5-3-3) は今だ8歳のため、摂政による統治が開始される。
(前王、正当性やたら低かったからまあいいか。)

そして、チャンスを待ち続けた先王の死から僅か6ヵ月後の同年10月、よりによってこのタイミングでリトアニア連合に動きが出る。ポーランドが東プロイセンを巡り、チュートン騎士団と交戦状態に入ったのである。

ポーランド軍が手一杯の状態であれば、例え彼らがリトアニア側についたとしても、満足な支援は期待できない・・・待ちに待った開戦の機会ではあったが、ツァーリ不在の今、ロシア軍の側から動くことはできなかった。

しかし、事態は思いがけない方向に推移する。リトアニアはチュートン騎士団とも同盟関係にあり、古くからの同盟国とはいえ、ポーランドによるチュートン騎士団の征服をよしとしなかったのである。その結果、リトアニアはポーランドではなくチュートン騎士団を支援するために軍を派遣、ポーランドはロシアに支援を求め、両国は連携してリトアニアと戦うことになった。
(今かよ!って感じだったので、なんとまあ都合よく事が運んでくれたもんだ。)

ポーランド-リトアニア戦争の推移(1557年5月)
ポーランド-リトアニア戦争の推移(1557年11月)
ポーランド-リトアニア戦争の推移(1558年5月)
リトアニア・チュートン騎士団への復讐を誓うロシア軍は、8万の大軍(ポーランド陣営の総兵力は約16万であり、ロシア軍が半分以上を占める。リトアニア陣営の総兵力が11万であることを考えると、とてつもない兵力である)をポーランドに派遣。ポーランド領内で優勢な戦いを進めていたリトアニア・チュートン連合軍をポーランド軍とともに攻撃した。
大量のマスケット銃を配備し、数でも優勢なロシア軍は、いまだマスケット銃の配備が少ないリトアニア軍を圧倒。最終的にリトアニア軍をリヴォニアに追い詰め、これを壊滅させた。

他方、複雑に絡み合った同盟関係により、戦争はドイツ諸侯の間でも行われていたが、こちらではリトアニア陣営が優勢であり、1558年2月ポーランド陣営の一角であったザクセンが脱落した(敵対するドイツ諸侯に囲まれており、集中攻撃にあっていた)。しかしドイツでの戦いは、この戦争の趨勢にはほとんど影響しなかった。

ポーランド-リトアニア戦争の推移(1559年4月)
ポーランド-リトアニア戦争の推移(1560年8月)
1558年7月までにリトアニア軍は事実上消滅、ロシア軍は一部をドイツに遠征させつつも、リトアニア東部諸都市の攻略に入った。

1559年、ポーランド陣営の残るドイツ諸侯ポメラニア、メクレンブルクが相次いでリトアニアと白紙和平し脱落。勝利したリトアニア側ドイツ諸侯は少数ながら軍をポーランドに派遣するも、ポーランド軍・ロシア軍の手により阻まれた。

1560年12月、ロシアの単独講和
ポーランド軍による東プロイセン攻略が進む1560年12月、ロシアはその奪取を待つことなく、リトアニアとの単独講和を締結、戦争から離脱した。これは戦争終結後、一転してポーランドがリトアニア支持に回るのではないかと警戒したことを受けてのものだった。
この講和条約により、ロシアはリトアニア支配下にあったロシア人地域、スモレンスクブリャンスクならびに南ルーシのルテニア人が住むノーウホロド=シーヴェルシクィイの支配権を獲得した。
(3つ目はロシア文化のクルスクが欲しかったが、戦勝点が届かず。たぶん東プロイセンが落ちたらポーランドが和平してしまうので。)

なお、残るポーランドとリトアニアの戦争は、最終的に翌1561年5月、ポーランドが目標である東プロイセンを攻略、リトアニアが同地の割譲を認めたことで終了した。和平後、ポーランドとリトアニアは直ちに同盟関係に戻った。リトアニアは以後再びロシアに対する警戒心を高め、対露包囲網の結成を模索するようになる。引き続き3国の関係は微妙なものではあるものの、同年6月、先の共闘を受け、ロシアはポーランドからかねてより要望のあった両国間の婚姻に同意した。

1562年、マリア・テレジアI世の帝国皇帝即位04-14
1562年、オーストリアのマリア・テレジアI世が神聖ローマ帝国皇帝に即位。帝国の長い歴史上で、初の女帝となる。
(そういえば、数年前に国事詔書のイベントでハプスブルク支持したっけ。女帝ありなんだ。)

1565年、ノガイ遠征
1563年9月、ノガイがティムール朝に侵攻。ティムール朝は既に没落して久しかったが、ノガイ軍が南方に注力している状況はチャンスである。
同年11月、オプリーチニナが創設されツァーリの権力が強化される(宗教Ideaで聖戦CBゲット)。

1564年6月、ロシアは旧カザン・ハン国地域におけるノガイの影響力を排除することを決定、7万の軍勢を持ってノガイに侵攻した。ノガイは勢いに乗るロシア軍の敵ではなく、1566年11月カザン、Buzuluk, バシコルトスタンの支配権をロシアに譲り渡した。戦後、ノガイはリトアニアが提唱する対露包囲網に加わった。

1572年、シビル・ハン国・アストラハン・ハン国遠征
次いで1572年、ロシアは東進の妨げとなっていた残るシビル・ハン国を攻撃した。ロシアの遠征軍を前に、シビル・ハン国は同盟関係にあった南のアストラハン・ハン国に救援を要請するも、これはツァーリの計画通りの動きであった。
ロシア軍はかねてより係争中であった南部国境付近にも大軍を派遣、シビル・ハン国のみならず、アストラハン・ハン国の軍勢をも一挙に打ち破った。1574年、ロシアはアストラハン・ハン国からかつてキプチャク・ハン国の首都が置かれていたサライ周辺を奪った上に、東方ではシビル・ハン国に従う諸部族を南へと追放、広大な領土を支配化においた。

1575年のロシアとユーラシア大陸
戦後、周辺の遊牧民諸国はこぞってリトアニアが提唱する対露包囲網に参加、ロシアはフィンランドを除く全方位を敵に囲まれた。急拡大を続けたロシアはしばしの休息を欲したが、それが実現するのはもう少し先のことだった。


>>第5回 1575年~1610年 黒海への進出とシベリア遠征

>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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