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2013

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (5)

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前回の続き。ステップでの戦争が終わり小休止・・・と思ったところから。

1575年~1610年 黒海への進出とシベリア遠征

1575年、第4次リトアニア戦争
1575年7月、リトアニアが近隣諸国へと攻撃を繰り返し、拡大を続けるロシアに対する懲罰戦争 (Punitive War) を宣言、ロシアに侵攻した。対露包囲網に基づき、ノガイクリミア・ハン国がこれに加わった。
アストラハン・ハン国シビル・ハン国は休戦期間中。)

ロシア・リトアニア双方の同盟国であったポーランドは、敵対するクリミア・ハン国を利するリトアニアのこの動きを強く非難、ロシアを支援するため出兵した。

第4次リトアニア戦争の推移(1576年8月)
広範囲に敵を抱えるロシア軍は内陸部に後退。国内でこれを迎え撃つことを計画する。しかし、ロシア軍の後退を見たリトアニア軍は、ロシア内陸部に侵攻せず、ポーランドに転進。各個撃破を図った。
シビル・ハン遠征軍も帰還し、体制を整えたロシア軍は、クリミア・ハン国、ノガイへの押さえを残しつつ、主力を再びポーランドに差し向けた。

1576年、敗走するポーランド軍との合流を目指すロシア軍5万は、ルテニアにてリトアニア・クリミア連合軍6万との予期せぬ会敵を果たし、戦火を交える。ロシア軍にとっては意図しない、数で劣った状態での戦いではあったが、先の戦争と大差ない装備のリトアニア軍(いまだ陸軍LV11)は、さらに改革を進めていたロシア軍(開戦後にLV14に上昇)に撃退され、逆に敗走した。

一方、ポーランド軍は新たに発生した北ドイツでのブランデンブルクとメクレンブルクの争いを支援するため、同地でイギリス軍とも戦火を交えており、以後この戦いからは手を引いた形となった。

第4次リトアニア戦争の推移(1577年6月)
1577年、クリミア軍を殲滅し、リトアニアで優勢な戦いを進めるロシア軍を前にリトアニアは和平条約を受諾した。リトアニアは先の戦争で失った領土に対する請求権を放棄し、ロシアは新たにリトアニア支配下に残っていた最後のロシア人地域クルスクを獲得した。

1581年のロシア周辺地域の民族分布
戦後の1578年、かねてより進められていたロシアとフィンランドとの合邦が完了、ロシアは広大なフィンランドに加え、棚ぼた式に旧ノヴゴロド領のコラ半島を回復した。フィンランドでも改宗・同化政策が推進され、17世紀までにこれらの諸地域は全てロシア化することになる。

しかしロシアのバルト海方面での拡大は同盟国ポーランドとはいえ容認できるものではなく、同年3月ポーランドは同盟の打ち切りを通告した。

他方、領土拡大に伴い数が増す一方、同化への抵抗は激しいタタール人に対しては、1581年以降独自の権利が認められるなど大幅な譲歩が図られるようになり、以後タタール人の側もロシアの統治に協力するようになっていった。しかし統治を受け入れたことで、皮肉にもこれを機にタタール人のキリスト教化が進んでいく。
(コア化が進んでタタール文化がAccepted cultureに昇格。宣教師のペナルティ-2が消えて改宗できるようになった。)

1588年、シベリア探検隊のサハリン到達
1580年代は、ロシアにとっては包囲網に囲まれつつも、戦火のない平穏な時代であった。軍は休息を終えた後も拡大を続け、総兵力12万を超えるも、その力は国内の治安維持や国土の統一促進へと向けられた。
(戦争しづらいから国内の同化・改宗を進めるなど。)

1586年には、いまだ情報が得られていなかったシベリア北東部の調査のため、コサックからなる軍の探検隊が派遣される。
1588年、探検隊はシベリアを踏破しサハリン島に上陸、オホーツク海を発見した。原住民によると、南にはより大きな島があり、その先には日本と呼ばれる島国があるということだったが、探検隊に海を越える能力はなく、その地を見ることは出来なかった。探検隊はその後ユーラシア大陸東端のカムチャツカ半島まで到達、数年後に帰国した。

1590年、第2次シビル・ハン国・アストラハン・ハン国遠征
1590年、ロシアを悩ませていた対露包囲網は、同年までにリトアニア・ノガイ以外の諸国が離脱したものの、アストラハン・ハン国が再加盟の動きをみせるなど、引き続き目障りな存在であり続けていた。そんな中、シビル・ハン国がノガイに侵攻、そこでロシアは再度シビル・ハン国を攻撃し、その同盟国であるアストラハン・ハン国を戦場へとおびき寄せた。

1593年のロシア周辺の交易路
裏切り者への支援は不要、包囲網への攻撃ではないとして、参戦を拒む他の包囲網参加国。孤立したアストラハン・ハン国は圧倒的な戦力の前に押し潰され、1592年正教徒が住むグルジアの黒海沿岸までの地域をロシアに割譲。そしてシビル・ハン国は滅亡した。

アストラハン・ハン国を撃破したロシアは、ついに念願の不凍港を獲得、黒海への進出を果たした。アストラハンサマルカンドから伸びる北西交易路の分岐点であり、この地域で影響力を拡大したことは貿易上でも大きなメリットであった。
(むしろ、カザンの交易範囲内に首都があってcollectするシビル・ハン国のが邪魔だったんだが。)

しかし、この不凍港は不完全なものであった。なぜなら、地中海への出口であるボスポラス海峡を抑えるオスマン帝国が戦後、対露包囲網の一員となったからである。10万の陸軍を抱えるオスマン帝国がリトアニアと協調したことで、ロシアの動きはさらに制限されることとなった。
(あえて国境線を接しないようにしたのに、うぜぇ・・・。)

1597年、進むシベリア入植
1593年、ロシア軍の騎兵が東方フッサー (Eastern Hussars) から、ステップ地方から募兵された南コサック (Southern Cossacks) へと置き換えられる。
同年、神聖ローマ帝国のオーストリアより同盟提案があり、締結が検討されるも、同国は当時カスティーリャ、イギリス、フランス、デンマークと交戦中(全部別の戦争とかおぃ)であり、立ち消えとなった。

1595年より包囲網を離脱していたノガイに対して再度の遠征を実施。ノガイの勢力はカスピ海・アラル海周辺地域まで縮小した。

一方、シベリアの開拓は同地の探検以後さらに加速され、ロシア人の入植地は、1597年には東シベリアのイルクーツクにまで達した。
(シベリア植民のNational Ideaが解禁されたの1598年だけど。)

1600年のロシア周辺地域の宗教分布
1599年、ロシアは正教を信奉する唯一の大国として、信仰の守護者を宣言。タタール人の改宗がさらに強化される。
1602年、ロシアの支援の下、アストラハン・ハン国のアブハジアで蜂起していた正教徒が、ロシアの保護下に入る。ロシアは同地の獲得のみを意図していたが、ロシアの脅威に耐えかねたアストラハン・ハン国のハーンも次いで正教に改宗した。
(政権崩壊したっぽいけど、分離するのに改宗を強いられるって悲惨だ。)


1610年のロシアとユーラシア大陸
1606年、ロシア軍はノガイの東にあったチャガタイ・ハン国の飛び地を強襲、これを追放した。

1608年、かねてより友好関係にあったデンマークと同盟を結ぶ。既に総兵力17万にまで拡大していたロシア軍にとって、デンマークの戦力は必要ないものであったが、これは対露包囲網が将来的にデンマークにまで拡大するのを防ぐためであった。
反露陣営にも動きがあり、1609年リトアニアが対露包囲網から離脱する。だが包囲網はオスマン帝国に引き継がれ存続となった。

中央アジア方面での勢力基盤確立に成功したロシアにとって、リトアニアに残るベラルーシやウクライナは魅力的な存在であり、かついまだ首都モスクワ近郊に拠点を残すクリミア・ハン国は目障りな存在であった。1610年、ロシアは西方で新たな戦いを開始する。


>>第6回 1610年~1645年 ウクライナを巡る争い

>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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