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2013

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (6)

CATEGORYゲーム
前回の続き。ロシアは東西に拡大中。

1610年~1645年 ウクライナを巡る争い

第5次リトアニア戦争の推移(1610年10月)
1610年、ハンガリーがポーランドへ宣戦、同盟国リトアニアも交戦状態に入る。前年に対露包囲網を離れたリトアニアは、西ヨーロッパ最強の陸軍国フランスと同盟していたが、フランスはこの時期カスティーリャの苛烈な攻撃を受けており、他国を支援できる状況になかった。

ベラルーシ・ウクライナの獲得を目指すロシアは、直ちに軍主力をリトアニア国境に集結させる。ハンガリーの攻撃から数ヶ月が経った同年6月末、ロシア軍は雪崩を打ったかのごとく、リトアニアに侵攻した。推測どおり、フランスは東欧での事態に介入する余力なしとして参戦を見合わせた。

第5次リトアニア戦争の推移(1611年6月)
第5次リトアニア戦争の推移(1611年11月)
リトアニア軍は開戦から1年後の1611年5月になりようやくリトアニアに帰還するも、迎撃の準備を整えていたロシア軍の前に敗北する。さらに同年7月には、クリミア・ハン国とその同盟国オスマン帝国が混乱するポーランドに侵攻、戦いの趨勢は決まった。

この戦争の最中、ツァーリVasiliy Wredeが1611年11月に死去。しかし後を継いだBoris II Wrede (0-4-5) の指揮により、戦争は継続される。

1612年10月、第5次リトアニア戦争の終結
1612年10月、制海権を頼りにエーゼル島からなんとか抵抗を続けていたリトアニア軍も、ついに退路を断たれ壊滅した。ポーランドにはハンガリー軍とオスマン帝国軍が溢れ返っており、国土の大半が占領され壊滅的打撃を受けた両国は、ロシアに対してリトアニア東部地域の割譲による講和を提案、ロシア側もこれを受諾し、ここにロシア-リトアニアの戦いはひとまず終結した。

1613年3月、露土戦争の始まり
そして国内に兵を戻したロシアは、僅か半年後の1613年3月、今度は一転リトアニア・ポーランドの支持を表明。両国に侵攻する異教徒を討つとして、クリミア・ハン国に侵攻した。ロシアはオスマン帝国の拡大を阻止するとともに、この機に乗じてクリミア・ハン国の勢力を内陸部から一掃することを企図したのである。
クリミア・ハン国はこの事態に驚き、僅かばかりの貢納金を条件にポーランドと和平、急ぎ軍を本土に戻すも、ロシア軍の待ち伏せに遭い大打撃をこうむる。

露土戦争の推移(1616年5月)
1614年、黒海沿岸エディサンにおける2度目の戦いでロシア軍6万は8万のオスマン帝国軍に敗北、突破を許すも、オスマン・クリミア連合軍は体制を立て直したロシア軍に撃退され、再度バルカン半島に撤退する。

オスマン帝国軍は以後もたびたびクリミアへの侵入を目指すも、エディサンを守るロシア軍に遮られ果たせず、一方ロシア軍はその間にクリミア・ハン国とノガイ(包囲網により参戦)の全土を攻略した。

1615年12月、ツァーリBoris II Wredeが在位僅か4年で死去。後継者はまだ1歳のAndrei IV (5-1-2) であり、一時混乱が起こりつつも、摂政評議会により戦いが継続される。

1616年10月、オスマン帝国軍はいまだクリミアへの侵入を果たせずにいたが、度重なる激戦にロシア軍の疲弊も色濃く、両国は講和に向けた交渉に入る。講和条約では、モスクワに近いクリミア・ハン領北端のタンボフならびに、ノガイの本拠地であるカスピ海北東地域の割譲が認められたものの、ロシアが当初計画していたクリミア・ハン国の内陸部からの一掃には到底至らなかった。
(オスマン軍もすっかり消耗してたが、こっちもマンパワーが尽きてこれ以上は厳しかったので渋々和平。)

1627年のロシア周辺地域の宗教分布
ツァーリが幼少のため、ロシアは戦後外征を控え、再び内政の時代へと戻る。それから10年は軍の再建とインフラの整備、異教徒の改宗、そしてシベリアへの植民が進められた時代であった。

1626年、再建が進んだロシア軍では、既に世界最大の陸軍規模を誇るにも関わらず、さらなる膨張方針が決定される(量重視Get)。

1627年、ロシア全土の改宗が完了。タタール人やその他民族の居住地も含め、国内全てが正教のもとに統一された。これにより、ステップで相次いでいた反乱も大幅に減り、ロシアの統治は大幅に安定するようになる。

1628年、太平洋への到達
1628年、ついにロシア人の入植地がオホーツク海に到達。ロシアは極東の地で、4つ目の海への進出を果たした。オホーツク海周辺は不凍港ではなかったが、以後同地を拠点に太平洋の探索が進められるようになる。

1629年、白羊朝遠征
1629年、成人したAndrei IVがツァーリとして即位。新ツァーリは、20年前にアゼルバイジャンの白羊朝により征服されたアストラハンを奪取すべく、同地への遠征を開始した。
戦いは一方的に進み、翌1630年12月ロシアはアストラハン、ダゲスタンにグルジア西部のイメレティを獲得した。イメレティの獲得により、ロシアは以後オスマン帝国と直接国境を接するようになる。

また、先の戦争中、中央アジアにてオイラトの西部がカザフスタンとして独立していたため、1631年これを攻撃。翌年併合した。続けてオイラト遠征も計画されていたが、ロシアの侵攻に驚いたオイラトは対露包囲網に参加、これ以上の遠征は見送られた。
(しまった講和前に先手を打って開戦しておけばよかった。)

1639年1月、第2次露土戦争の勃発
1639年、先の戦争の雪辱を誓うクリミア・ハン国が、ロシア南部に侵攻。対露包囲網に基づき、参加諸国にロシア打倒の挙兵を呼びかけた。しかし、攻撃には二の足を踏む諸国が多く、結局参戦したのは同盟国オスマン帝国のみであった。

第2次露土戦争の推移(1640年12月)
コーカサスでの防衛は難しいと考えたロシア軍は、同地を捨てて内陸部に後退。コーカサスが略奪される中、オスマン帝国軍主力は首都モスクワに向け進撃、待ち構えていたロシア軍はこれを打ち破った。

反撃に転じたロシア軍は、1640年にオスマン連合軍10万(ロシア軍9万)との戦いに敗れ、一時劣勢に追い込まれるなどしたものの、全体的には有利な戦いを進める。しかしその後も押し寄せ続けるオスマン軍の前に、守勢から脱することが出来ず、なかなかクリミアに兵を進めることが出来なかった。一方、コーカサスを攻略したオスマン軍は、防備の手薄なステップ・ウラル方面へも進撃を続け、占領地を拡大する。しかし結果として、戦力の分散を招いてしまう。

第2次露土戦争の推移(1644年4月)
1645年5月、第2次露土戦争の講和
クリミア方面での圧力が弱まったことで、ロシア軍はようやく南進に成功。1644年4月に、デンマーク軍(ロシア側で参戦)が白紙和平で撤兵するものの、ロシアの優勢は崩れなかった。

1644年8月、オスマン帝国はシリアから撤退(第3国のマムルーク朝に返還)することを条件とする和平案を提案するもロシア側は拒否。
1645年5月、クリミア・ハン国がハリコフを割譲することを条件に、講和が成立した。
(もうちょい欲しかったが、ロシア軍が戦いに勝つ→オスマン軍が城を落とす、で一進一退になっていたので。)

なお、この戦争のさなかに、ロシア軍の歩兵はピョートル式歩兵 (Petrine Infantry) と呼ばれるより効率的な体制へと更新されている。

1645年のロシアとユーラシア大陸
一連の戦争を経てリトアニア、クリミア・ハン国の双方が弱体化する一方、ロシアの勢力は東西で拡大した。ロシアにとって当面の脅威は、クリミア・ハン国を支援する南方のオスマン帝国のみとなった。しかし、今のロシアにはアナトリアや中東への関心はなく、同国との正面衝突を出来るだけ回避しつつ、包囲網諸国を制圧することが模索されていく。

一方、前世紀から進んでいたシベリア入植地の拡大は、入植地がついに東端カムチャツカ半島に至ったことで、ひとまず終わりを見せた。探検隊が北海道やアラスカを発見したことで、以後ロシア人は極東の港から、新たな大地へと広がっていくことになる。


>>第7回 1645年~1680年 対露大包囲網

>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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