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2013

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (7)

CATEGORYゲーム
前回の続き。二度の露土戦争の後。なお何度かデンマーク絡みで同盟参戦もしてるけど割愛。

1645年~1680年 対露大包囲網

1650年3月、対露包囲網との戦い(リトアニア・クリミア戦争)
第2次露土戦争からの復興が一段落した1649年、ロシアに対露包囲網を攻撃するチャンスが訪れる。先の戦争の講和条約によりオスマン帝国クリミア・ハン国の同盟が一時的に解体された結果か、オスマン帝国が包囲網を離脱したのである。
包囲網の盟主となったリトアニアは、フランスやオーストリアといった西ヨーロッパの大国と同盟を結んでいたものの、仏墺は交戦中であり、前回のリトアニア戦争同様、支援は行えないだろうと予想された。

同年7月、ロシアは包囲網諸国をおびき出すため、ノガイへと侵攻した。しかしこれは甘い予想であった。開戦から僅か2ヵ月後の9月、早くもフランスが参戦してきたのである。

1651年2月、フランス軍の到着と戦争の終結
フランスの参戦を受け、ロシア軍は短期決戦を目指し攻勢を強める。ロシア軍はリトアニアを始めクリミアや中央アジアなど全戦線で圧倒的優勢な状態にあったが、1651年ついにフランス・ボヘミア連合軍がリトアニアへ到着する。

連合軍の圧力を前に、ロシア側も渋々講和の交渉に入る。交渉は紛糾したものの、ロシア側が撤退の代償としてクリミア・ハン領北部ヴォロネジを譲り受けることで講和が成立した。
(戦勝点50%越えだったけど、フランス軍潰さないと譲歩しなさそう。割に合わん(--;)

1654年、アラスカ入植の始まり
1654年、ベーリング海峡を渡り、アラスカへの入植が始まる。またロシアは平行して東南アジア方面にも探検隊を派遣する。フィリピンを植民地化するカスティーリャに続き、1661年にはロシア東インド会社が設立され、台湾にその拠点が設けられた。

1657年、オイラト遠征
1656年3月、包囲網を抜けていたモンゴル高原のオイラトを攻撃。ノガイと中国南部を支配する、それにがオイラト支援のため出兵する。
ロシアの遠征軍1万4千は、ゴビ砂漠で迎え撃つオイラト軍3万をたやすく撃破。周王は10万とも呼ばれる遠征軍を西域に派遣するも、近代的な装備に身を包んだロシア軍はこれも撃退した。

1657年5月、既に衰退著しかったノガイが滅亡。
1658年6月、残るオイラトら諸国との間に和平が成立する。ロシアは中央アジア方面からオイラトの勢力を駆逐した。
(Argyn、アルタイタンヌ・トゥバGetでモンゴル方面の歴史的領域確保完了。)

1659年7月、対露包囲網との戦い(クリミア・ヒヴァ戦争)
翌1659年、対露包囲網はリトアニアの離脱、ペルシャの加盟に加え、クリミア・ハン国の同盟国であるオスマン帝国(自身は未加盟)がペルシャの同盟国であるマムルーク朝を攻撃するなど、一枚岩とは言い難い混乱状態に陥っていた。
これを見たロシアは、包囲網への更なる攻撃を決意する。

中央アジアヒヴァ・ハン国への攻撃により包囲網各国へと伝令が走るも、クリミア・ハン国と交戦中のペルシャは参戦を見合わせ、さらにオスマン帝国も不介入を表明した。これはロシアにとって期待以上の状況であった。
(今回ヒヴァ・ハン国が盟主になり、包囲網戦は盟主の同盟国が呼ばれるので、オスマン呼ばれなかった。Good!)

ロシア軍はまずクリミア・ハン国を集中攻撃してこれを撃破。次いで白羊朝、ヒヴァ・ハン国、ティムール朝と各国を蹂躙した。
1661年1月、戦闘が終結。ロシアはクリミア東部一帯と、ヒヴァ・ハン国北端のウスチュルトを獲得した。

1662年1月、第6次リトアニア戦争
軍を戻したロシアは1661年10月、次いでリトアニアを攻撃した。これはリトアニアが包囲網を離脱しており、こちらも同盟国のフランスとオーストリア・ポーランドが互いに争うなど、混乱が続いていたためであった。

フランス・オーストリア双方が支援を見合わせた結果、リトアニア軍はロシア軍との圧倒的な戦力差の前に壊滅的打撃をこうむり、1663年11月ミンスクキエフといった主要都市を含むベラルーシ・ウクライナの東部地域一帯を割譲する屈辱的な条約に調印させられることとなった。

(なお戦争中にロシアの陸軍LVは20に上昇。リトアニア・ポーランドはまだ17で、フランスが21、オーストリアが19、オスマンが20と、陸軍だけは世界の先端についていっている状態。)

1664年3月、対露大包囲網の結成
しかし、この大勝が東欧のパワーバランスを壊滅的なまでに破壊した結果、一連の戦役で強まっていたロシアに対する警戒感はついに限界点を超える。
リトアニアの呼びかけに答え、東方からの侵略者ロシアを打つべしと包囲網に結集する西ヨーロッパ各国。イギリス、カスティーリャといった大国を始め、北ドイツ諸侯や聖ヨハネ騎士団、それにヴェネツィア共和国までが加わり、対露包囲網は総計18カ国にまで達した。

1664年11月、カスティーリャがロシアに対して宣戦布告、ついに大包囲網との戦端が切って落とされた。

1664年11月、対露大包囲網との戦い勃発(カスティーリャ)
対露大包囲網との戦い推移(1666年6月)
戦端は開かれたものの、この時点では直接ロシアの脅威に晒されている近隣諸国はいずれも停戦期間中であり、地続きの国家はひとつも参戦していなかった。
結果、大包囲網の主な攻撃対象はバルト海の沿岸地方となり、それはつまり、地形的な関係から攻撃はロシア本土ではなく、まず同盟国のデンマークへと集中する事態となった。

海軍大国イギリスの大艦隊によりバルト海の制海権が握られ、デンマークは北ドイツにおいて劣勢に陥るも、ロシア陸軍に救援に向かうすべはなかった。
一方見方を変えれば、この時点ではロシア本土は全く戦火に見舞われておらず、まだ戦争が始まったとは言えないような状況にあった。

1667年1月、戦争の拡大とデンマークの離脱
対露大包囲網との戦い推移(1667年9月)
1666年9月、この状況を一変させる出来事が起こる。包囲網に基づく新たな戦い、2つ目の戦争である第3次露土戦争の勃発である。クリミア・ハン国、オスマン帝国が主体となるこの連合軍は、ロシア陸軍と即座に交戦状態へと入った。

1667年1月、デンマークがカスティーリャ戦を単独講和で離脱。デンマークはロシアとの同盟を解消する(ただしオスマン戦ではまだ同盟のまま)。以後、バルト海東岸のロシア領が連合軍の攻撃を受けるようになる。

1667年4月、オスマン連合軍14万とロシア軍12万がアブハジアで会戦となるも敗北、ロシア軍は内陸に後退。しかし戦場が広大なロシアの大地に移るにつれ、先の露土戦争同様、連合軍はどうしても戦力が分散してしまう。
戦力を回復したロシア軍は、分散した敵軍を内線作戦で次々に攻撃、カスティーリャ・オスマン両連合軍を各個撃破していった。

戦局がロシア側に傾いた1669年3月、戦争の指揮を執ってきたツァーリAndrei IVが死去。後継者Vasiliy V Wrede (4-1-4) がその跡を継ぐ。

1669年4月、戦争のさらなる拡大
対露大包囲網との戦い推移(1671年3月)
1669年4月、さらに3つ目の戦争となるヴェネツィアによる包囲網戦争が勃発する。これはリトアニアにポーランド、ハンガリーが主体となった連合によるものであった。
しかし、戦局がロシア側に傾いてからの参戦は、あまりに遅きに失したものであった。

この参戦を受けてロシアはオスマン帝国との早期講和を模索、地続きの大国として大きな負担を強いられていた同国は、同月停戦を受諾した。
カスティーリャとの戦いも、コーカサスでの激戦を経て、1670年5月に停戦が成立。ロシア軍はリトアニアに殺到した。
(どっちも賠償金と嫌がらせ属国解放程度。オスマン連合からはあとちょっとで領土も削れそうだったが・・・。)

1672年4月、残るヴェネツィア連合との講和が成立。リトアニアはさらにベラルーシ・ウクライナを喪失した。

1680年のロシアとユーラシア大陸
ロシア打倒の動きが全て失敗に終わったことで、戦後イギリスやカスティーリャといった遠方の国々は対露包囲網を離脱、新しい東欧の勢力図を元に外交政策を練り直す方針をとった。
(10年も戦争してたからAggressive expansionが結構下がったっぽい。新しく奪ったのにね。)

一方、近隣の国々では引き続きロシア打倒が叫ばれ、1675年11月にはクリミア・ハン国とオスマン帝国が再度ロシアに挑むも、逆に1680年にティムール朝が領土を失う形で終戦となるなど、ロシアの支配は次第に確固たるものとなっていった。


>>第8回 1680年~1735年 コーカサスの平定と満州への進出
※ 私用の関係上、これから2ヶ月ほどメインPCに触れなくなるため、次回は1月頃の予定です。再開しました。
>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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