07
2014

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (8)

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間が空きましたが前回の続き。大包囲網との戦いを乗り切ったところから。パッチがあたってここからVer1.3.2です。戦闘で損害が出やすくなったりと、いろいろバランスなど変わっている・・・様子。

1680年~1735年 コーカサスの平定と満州への進出

一連の戦争の後とあって、1680年代の前半は比較的平和な時代となる。1681年には戦闘用ガレオン船 (War Galleon) の登場を受け、先の戦いで壊滅していた海軍の再建が着手される。1684年頃になると、対露包囲網も一段と規模を縮小していった。
そんな最中、コーカサス地方の白羊朝が南方からイラクへの進出を果たしていたイエメンの攻撃により国土の半分を喪失する。白羊朝は包囲網に不参加だったこともあり、ロシアはこの機に乗じて軍を派遣し、1686年にはこれを併合した。

オスマン帝国率いる包囲網との戦い(1688年3月)
1687年2月、再度オスマン帝国が包囲網(リトアニアやイエメン、中央アジア諸国)を率いてロシアを攻撃する。オスマン帝国と同盟を締結していたデンマークも敵として参戦した。

防御体制を整えたロシア軍は、コーカサス方面の山岳を利用した防衛戦をよくこなし、かつての戦いのようなこの地域からのオスマン軍の侵入を防いだ。一方、西部においては各国軍入り乱れての散発的な戦いが繰り広げられ、戦争後半になるとオスマン軍主力もバルカン方面からの侵入を試みるようになり、激戦が繰り広げられた。
1690年の講和条約では、ロシアはリトアニアのヴェンデンティムール朝タシュケントを獲得した。

戦後の1691年、シベリアのロシア-オイラト国境地域で、シビル・ハン国の遺臣がオイラトより独立との報がもたらされる。ロシアはこちらにも軍を派遣、直ちに併合した。
(友好度に歴史的ライバルのペナルティがあり、包囲網に入りそうでうざかったので。。。)

1697年、イエメン・ヒヴァ遠征
包囲網戦の休戦期間が終了した1695年、ロシアはアルメニアのキリスト教徒保護の名目で、包囲網を離脱していたイエメンならびにその同盟国ヒヴァ・ハン国を攻撃する。

技術力でも兵数でも劣る両国が対抗できるはずもなく、ロシア軍ははるかアラビア半島まで進撃を続け、1697年12月には南コーカサスのアルメニア、アゼルバイジャン、中央アジアではヒヴァの北部領土全域を割譲させる条約に調印させた。
(これでコーカサス方面も歴史的領土獲得完了。)

当然ながら戦後、このロシアの行動に対して、中央アジアを中心とする各地で危機感が拡大。各国はこぞって対露包囲網に参加し、包囲網はインドや東アジアの諸侯も交えた計19カ国にまで拡大した。
欧州諸国の参加は少なく、ロシアにとって脅威というほどではなかったが、警戒心が止むまで、また当面の目標を達成したことで、しばらく守勢に回ることになる。ロシア領となったコーカサスでは、国境沿いに巨大な要塞が次々と建設された。

1700年、18世紀に突入
1698年12月、(適当に友好度を上げていた)フランスから同盟の打診。フランスはリトアニアとも同盟国であったものの、当面西側で攻勢に出るつもりの無かったロシアはこれを承諾する。
(なお、当時イギリスやデンマークはオスマン帝国と同盟中で、オスマン大人しいな?と思ったら北ドイツでデンマーク救援してた。)
1699年、正教国のボスニアにハンガリーが侵攻する。信仰の守護者として救援を求められるが、ポーランドから領内通過の許可を得られる見込みがなく、これを断念。ツァーリは正教徒からの非難と失望にさらされた。
(どうせ助けにいけないし、改宗が一通り終わって解除したかったからごめんねボスニア・・・なおハンガリーさんは巡り巡ってフランスに粉砕されました。)

そして時代はついに18世紀へ。1700年には、議会の設立を求める動きなどが高まり、聡明なツァーリは改革を認めつつも、時には鞭を持ってこれに対処した。またナショナリズムの高まりから諸民族の蜂起が増え始めたのもこの頃からであった。

1703年、フランスが教皇領に侵攻、イギリス・オスマン帝国を敵に回す大きな戦争となる。フランスは同盟に基づきロシアにオスマン帝国との戦いを要請するも、ツァーリは戦争の発端を作ったのはフランス側であるとしてこれを拒否。フランスは激怒し、同盟は破綻を迎えた(その面子、うちが戦闘正面じゃないですかやだー)。

1704年、包囲網第1陣・第2陣との戦い
そして翌1704年、ロシアの孤立を見た包囲網各国は、ロシアへの復讐を誓い攻撃を開始する。
2月にティムール朝の呼びかけによりクリミア・ハン国やヒヴァ・ハン国、イエメンらが、6月には朝鮮の呼びかけによりリトアニアや南インドのヴィジャヤナガルがロシアとの戦争を開始した。

ロシアはまず第1陣の諸国をターゲットに攻撃を進め、平行して第2陣のリトアニアを攻撃した。第1の同盟を蹂躙したロシアは1706年2月、クリミア領西端のエディサンを獲得、これと講和した。この地は、バルカン方面のオスマン軍との戦いにおける極めて重要な拠点であり、ツァーリはこの地に軍事都市オデッサを築き、要塞化を進めた。

1707年、続く戦争と新ツァーリの即位
同年10月、新たにハンガリーがオスマン帝国とともにロシアとの戦争を開始。しかしオスマン帝国はフランス戦を続けたままであり、この戦線は当初ほとんど動きはなかった。

戦争の最中の1707年6月、ツァーリVasiliy V Wredeが死去。その在位は37年にも渡った。新ツァーリMikhail I Wrede (4/0/0) は戦争の早期終結を目指し、同年10月に第2の同盟との講和が成立。ロシアはリトアニアからベラルーシのピンスクを獲得した。

講和後、ロシア軍は主力をアナトリア半島に進軍させる。しかし時同じく、ハンガリー・オスマン連合軍もコーカサス方面に進撃。山岳部の持久戦を企図するロシア軍だったが、敵軍の動きに平野部での決戦に持ち込まれ敗退。以後ステップ方面において、補給と会戦を繰り返す消耗戦となり、最終的に1711年12月、形の上だけはロシア側が敗北を認めるという条件で、現状復帰がなされた。

一連の戦役の終結に伴い、拡大した対露包囲網も再び以前の規模へと縮小した。

1714年の東南アジアとマカッサル遠征
一方東方においては、17世紀の太平洋到達以後、ロシア人は海洋にも進出し、東南アジアにおいてスラウェシ島に拠点を築いていた。1714年には、この島に唯一存在した敵対勢力のマカッサルを攻撃、全島を支配下に置いた(回復待ちの間暇だったので)。

1716年、ロシアはこれまで定めていなかった5つ目の国策として防衛主義を、6つ目に革新を決定。数を頼みとする戦術を改め、軍の改良も重視する方針を採る。
(しかし統治力が全然足りないので埋まらない・・・。)

1719年、極東における戦乱
1717年10月、極東アジアにおいて動乱(満州vs朝鮮、日本vs朝鮮、オイラトvs満州)が勃発したのを見たロシア軍は、かねてより企図していた沿海州獲得のチャンスとして、4万の遠征軍を派遣する。失地回復を狙う明も満州を攻撃し、一時は明清交代目前とまで見られていた満州は壊滅状態に陥る。
(明清交代待ってたけど、いつまでたってもしないからもうやっちゃうよ///)

1720年、ロシアは満州から北満州全域を割譲した。ついでロシアは日本と交戦中の朝鮮を攻撃、半島全土を蹂躙した。

1723年、リトアニア戦・朝鮮遠征の終結-02-25
もちろん、こうしたロシアの動きは周辺諸国を刺激し、同年10月にはクリミア・ハン国やリトアニアら包囲網による対露宣戦布告が行われた。しかし、大国の参戦は無く、逆に連合軍はロシア軍の逆襲により大打撃をこうむることとなった。
1723年2月、ロシアは朝鮮から南満州東部を、リトアニアからは残る全ベラルーシ&ウクライナを奪った。この敗北により、リトアニアは東欧の小国へと転落した。
沿海州を獲得したロシアは、同地に軍港ウラジオストクを建設、極東の地に新たな不凍港を獲得した。
(これで極東方面の歴史的領土も獲得完了・・・旅順はロシア領じゃないからとりあえず放置で。)

1724年、ロシアで軍幼年学校 (Broaden the curriculum of the Cadet Corps) が設立され、軍に優秀な人材が安定して供給される体勢が整う。
(技術コスト-10%、これでロシアの固有アイデアもコンプリート。)

オスマン帝国、リトアニアらとの包囲網戦(1732年8月)
1727年3月、ティムール朝の呼びかけにより、オスマン帝国とその同盟国デンマークがロシアと戦端を開く。ロシア軍はこの機会にフィンランドの攻略を伺うも、2正面作戦は厳しく結局オスマン戦に専念することになる。
オスマン帝国との戦いはロシア優位に進みつつあったが、1730年12月満州による新たな包囲網戦が勃発。リトアニアに加え、オーストリアヴェネツィア共和国が参戦した。

ロシア軍はオーストリア軍らの攻撃もあり、オスマン軍に決定的打撃を与えることに失敗。1732年10月、第1の同盟とはオスマン帝国が僅かばかりの賠償金を支払うことを条件に講和が成立した。

その後、オーストリア軍はドイツでの戦争により本土に帰還。取って返したロシア軍は残るリトアニア軍やヴェネツィア軍を撃破し、1733年9月リトアニアがウクライナ・ベラルーシに対する全ての権利(中核州)を放棄すること、ならびにヒヴァ・ハン国がシルクロード貿易の重要拠点サマルカンドを割譲することで講和が成立した。

1735年のロシアとユーラシア大陸
1735年のアメリカ大陸。カリフォルニアがロシア領
18世紀前半、ロシアはその拡張思考により終始包囲網に囲まれ、幾度となく戦争を繰り返したものの、総兵力30万予備人員50万にも上る膨大な国力により、もはやこれを独力で捻じ伏せられるまでの超大国に成長していた。
また北米においても、アラスカからカリフォルニアまでの地域を植民地とし、一定の影響力を確立した。

極東とコーカサスでの領土獲得に満足したロシアは、中央アジアでの戦いを続けつつも、再びその目を西方に向ける。

(残り100年弱、包囲網に入っちゃうからポーランドからは奪い切れないかなぁ・・・というか、カスティーリャと同君連合になってやがる!これは労力が割に合わん(--;)


>>第9回 1735年~1775年 東欧の新秩序

>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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