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2014

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (9)

CATEGORYゲーム
前回の続き。包囲網との戦いを繰り返しつつ史実の領域目指し領土拡張中・・・後はもうゲーム終了まで基本同じような展開です(--

1735年~1775年 東欧の新秩序

1738年、西方での戦争の機会を窺うロシアに対して、クリミア・ハン国が宣戦布告。包囲網と同盟により、オスマン帝国とデンマーク、ならびにペルシャらが参戦する。
ロシアはこの機会にクリミア・ハン国の打倒を計画するも、緒戦においてコーカサスの山岳地帯での防衛に失敗、次いでステップ地方において20万近い大軍により会戦を挑むも、寡兵のオスマン帝国軍に敗れるなど失態を繰り返す。
ツァーリは方針を変更し、フィンランド・コーカサスの防衛を諦め、内陸部に侵攻してきた敵軍に消耗戦を強いる戦術を開始する。1740年には一旦戦局を持ち直した。

オスマン帝国・デンマーク連合との戦いと新ツァーリFyodor III Wredeの即位(1741年7月)
戦争の最中の1741年7月、ツァーリMikhail I Wredeが死去。新ツァーリFyodor III Wrede (1/6/2) が指揮を執る。
この頃までに、オスマン軍は総兵力の7割に当たる10万近い兵力を失っており、勝利も目前かと思われていた。しかし、数を過信し軍制改革が遅れていたロシア軍は3倍近い戦力差でおびただしい損害を出しながらでしか勝利を掴めず、戦争は両軍ともに屍を積み上げる激戦と化した。
(量重視とはいえ弱すぎでしょorz・・・後になって気づいたけど、ここしばらく国策取ったりで軍事LV遅れ気味で、どうも周辺国は既にユニットが切り替わっていたっぽい。)

1744年、総兵力の8割を失ったデンマークが、ロシアが形式上敗北を認めることを条件に単独和平に同意、戦線を離脱する。デンマーク軍は既に戦争遂行が不可能な状態にあったが、いまだ首都モスクワに迫る広範囲の地域を占領しており、この和平によりロシア軍は再び安全な後背地を抱えて活動できるようになった。

残るオスマン帝国との戦いと新ツァーリDmitriy VII Wredeの即位(1745年7月)
戦争がさらなる消耗戦を見せる1745年、ツァーリFyodor III Wredeが僅か4年で死去。聡明で知られるDmitriy VII Wrede (5/3/3) が後を継ぐ。新ツァーリは、無益なこの戦いの終結に向けて交渉を本格化させた。

1746年5月、結局8年に渡った戦いは、オスマン軍もロシア軍も双方決定的な打撃を与えることが出来ないまま、損害ばかりを積み重ねた末に白紙和平、という全く無益な形に終わった。

1748年、カスティーリャによるポーランド併合
1748年、東欧の勢力バランスを大きく塗り替える出来事が起こる。西ヨーロッパの大国カスティーリャが、同君連合のポーランドを併合したのである。ポーランドへの進出を目指していたロシアにとっては、これは悪夢としか言いようがない出来事であり、戦略の見直しを強いられることになる。
(なんてこった\(^o^)/ こっち方面の史実領土達成は厳しそう。というか、俺がこんなに苦労(Aggressive expansion的な意味で)して拡張してるのにそんなさくっとですか(--;)

1750年、先の戦争の失敗を踏まえ陸軍の改革が行われ、旧式のピョートル式歩兵は近代的なグリーンコート歩兵 (Green Coat Infantry) へと置き換えられ、各部隊の戦闘力は大幅に改善される。

1753年、宿敵オスマン帝国が包囲網から離脱する。だが残る(盟主になりそうな)リトアニアは仏墺と同盟をしており、はやる軍を抑え、ツァーリは次のチャンスを窺う。

ロシアによる包囲網攻撃(1757年9月)
1755年、リトアニア・フランス・オーストリア・オスマン帝国がいずれも戦争中なのを見たロシアは、中央アジアの敵対勢力を一掃すべくティムール朝への遠征を決行した。救援要請を受け包囲網各国が参戦するも、近年の規模縮小により参加したのはリトアニアやクリミア・ハン国ヒヴァ・ハン国、それにオイラトイエメンといった中小国ばかりであった。

1756年1月、まずティムール朝が滅亡する。しかしロシア軍はさらに進撃を続け、1757年9月にはリトアニアからエストニア全土を、クリミア・ハン国から半島部を除く全領土を割譲。12月にはさらにヒヴァ・ハン国からもサマルカンド周辺地域を奪った。
(包囲網参加国でないイエメンが盟主になったおかげで単独和平が出来るようになっていたので、これ幸いと取り捲る。このルール初めて知ったわ。)

当然ながら、この事態を受けオスマン帝国やデンマークなどヨーロッパ諸国も含む多くの国が包囲網に参加、再び大包囲網が結成される。1758年1月、オスマン帝国が各国とともに、ロシアに宣戦布告した。

オスマン帝国率いる包囲網との戦い(1758年6月)
オスマン帝国率いる包囲網との戦いと新ツァーリYuriy V Wredeの即位(1759年9月)
連合軍は多方面からロシアに侵攻するが、ロシア軍の戦力は近代化により大きく改善されており、1759年のミングレリアの戦いでは、ロシア軍16万は地の利を生かし19万のオスマン連合軍に完勝。同年9月にツァーリDmitriy VII Wredeが死去するも、新ツァーリYuriy V Wrede (2/1/1) の指揮の下、軍は巧みに敵軍を退け続けた。
反撃に転じたロシア軍は、デンマークとの係争地であったフィンランド南西部を制圧。1761年4月、デンマークが同地を割譲することを条件に戦争は終結した。

デンマークら包囲網との戦いと農奴制の廃止(1768年1月)
戦後間も無い1762年、ツァーリYuriy V Wredeも即位から僅か3年で死去。唯一の後継者である娘のElizaveta Iは2歳であるため、摂政評議会の統治となる。この頃、対露包囲網は26カ国にも及んでおり、評議会は対外的な動きを控え、体勢の維持に注力することになる。

1767年5月、朝鮮の攻撃をきっかけに、包囲網諸国との戦端が開かれる。この攻撃には、デンマークやリトアニア、クリミア・ハン国などロシアに恨みを持つ国々が主に参加した一方、大国と呼べる国は加わらず、評議会は他国の介入を警戒しつつもこれをたやすくねじ伏せた。
一方国内では、戦争で軍や貴族の関心がそれているこの機会を狙い、評議会を制した改革派が各種改革を断行。1768年ロシアの後進性の象徴と言われていた農奴制が廃止された。

1770年5月、主力であるデンマーク軍を粉砕し、隣接する敵対国を軒並み制圧したロシアは、リトアニアからリガ湾南岸地域を、オイラトからモンゴル東北部を割譲した。

新ツァーリAndrei V von Wettinの即位(1774年4月)
1773年、皇女Elizaveta Iは即位を待つことなく、流行病で死去。16世紀から続くWrede家の王統は途絶え、ツァーリが空位の状態となる。1年の議論の末、婚姻関係にあったフランス王家より19歳の王族Andrei V von Wettin (3/2/4) を新ツァーリとして招くことが決定された。以後、ロシアの王統はザクセンを起源とするヴェッティン家に世襲される。

1775年のロシアとユーラシア大陸
1775年のアメリカ大陸
18世紀中盤、ロシアは未だ膨張を続けていたものの、カスティーリャ-ポーランド連合王国の出現により、中欧への進出を阻まれる形となった。これを打破する機会を見出せないまま、時代は19世紀に移り変わろうとしていた。


>>第10回 1775年~1821年 帝国主義の時代

>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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