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2014

[EU4]モスクワ/ロシアAAR (10)

CATEGORYゲーム
前回の続き。今回が最終回になります。・・・が、最初に断っておきますが、最後に大戦を制して大団円ということもなく、同じような展開が続きます(汗 ネタが無いので残り僅かなのにVer1.4.0当てました(1805年~)。

1775年~1821年 帝国主義の時代

デンマーク・サヴォイア連合軍との会戦(1779年4月)
1776年1月、満州との衝突がきっかけとなり、再びリトアニアヒヴァ・ハン国ら包囲網、それにオーストリアがロシアを攻撃する。
この最初の攻撃自体は小規模なものに過ぎなかったが、1776年8月優勢に戦いを進めるロシアに対して、ポメラニアの呼びかけにより第2陣が攻撃を開始、デンマークやオスマン帝国が参戦した。

戦争の激化を受け、1777年5月ヒヴァ・ハン国からの領土割譲とリトアニアがエストニアに対する権利を放棄することを条件に、第1の陣営との和平が成立。
第2の陣営とも、1779年のバルト湾岸でのデンマーク・サヴォイア連合軍との会戦の勝利により和平の機運が高まり、6月デンマークがフィンランドに対する権利を放棄することで和平が成立した。
(というかこの同盟、欲しい領土持ってる国居ない・・・これ以上頑張ってもモンゴルの僻地ぐらいしか土地が無い。)

戦後ロシアはキルギスチャガタイ・ハン国を併合、中央アジア東部の支配域を確定させた。
(これで中央アジアはヒヴァ・ハン国の領域を残すのみ。)

大包囲網戦争、スモレンスク会戦時(1788年11月)
1784年12月、再び対露包囲網との戦いの火蓋が切って落とされる。前回同様、満州との衝突からオーストリアを含む各国がロシアを攻撃。さらに1786年5月には、オイラトの呼びかけでデンマークとオスマン帝国、ペルシャが、加えて同盟関係からフランス、ボヘミアといった西欧の大国まで参戦する事態となる。

第1の同盟とは、特にこれといった戦いも無いまま1786年7月、リトアニアがクールラントサモギティアを割譲することを条件に和平が成立した。リトアニアは海への出口を失い、首都周辺の自治のみが認められた小国にまで転落した。

しかし1787年12月、新たにポメラニアの呼びかけによりカスティーリャが参戦。各国は次々とロシアに大軍を派遣し、ロシア軍は窮地に追い込まれる。
(ただし、カスティーリャは結局植民地を荒らし回るばかりで進軍してこず、やる気がなかった。)

1788年3月、相次ぐ敗戦により敗色の色濃いロシア軍は、戦局打開のため軍の再改革に着手。軍を一旦後方に下げ、新たに Mass Infantry と呼ばれる編成への切り替えを行う(戦争中に軍事LV30到達)。11月、補給を完了し、体勢を整えたロシア軍はスモレンスクでデンマーク・フランス・オスマン帝国連合軍と会戦。連合軍が戦力の逐次投入となったこともあり、21万の軍勢で16万の連合軍を打ち破った。

大包囲網戦争、終戦時の状態(1792年3月)
だが、数を頼みとするロシア軍は遥かに上回る兵力の連合軍を前にして、また欧州一とも称される強力なフランス軍の活動により、ゲリラ的な反撃を続けつつも、侵攻を抑えられない状態が続く。

結局、戦いは各国ともおびただしい損害を積み上げる中、何とか首都モスクワを守り抜いたロシア軍の粘り勝ちという形になり、1792年いずれの同盟とも白紙和平に近い形で終戦が決定した。
この戦いでは、ロシアは40万人にも上る人的損失と4000ダカット以上の借款、さらにバルト艦隊の壊滅という痛手をこうむる。ロシアはこれまでの孤立主義を改め、他の列強との協調を模索するようになる。

1796年、ロシアはイギリスからの同盟要請を受諾、さらに同国と婚姻関係を結んだ。
(なお、ふと気づいたらフランスとの婚姻はなくなってた。というか貴族共和制になってる・・・何で?)

翌1797年、国力を回復したロシアは、一連の騒乱の発端となった極東の問題を解決すべく満州(包囲網を離脱済)を攻撃。これを滅ぼした。

ブランデンブルク防衛戦(1798年6月)
1798年、中欧にて戦乱が発生する中、ポメラニアの侵攻からブランデンブルクを防衛するため、イギリスが参戦。ロシアもこれに加わる。ポメラニア側にはカスティーリャが付いたため、ロシアはこの機にカスティーリャに打撃を与えることを企図する。
(というか、カスティーリャ、兵力限界が25万なのにロシアを上回る40万も常駐させてらっしゃるんですが(--)
派遣されたロシア軍はカスティーリャのポーランド駐留軍を激しく攻撃したものの、翌年にはポメラニアが降伏し停戦となり、大した成果は得られなかった。

戦後、ロシアはさらに西欧の思想を取り入れ、体制を絶対君主制から啓蒙専制君主制 (Enlightened Despotism) に改める。
一方、極東では引き続き敵対勢力の一掃をはかり、1799年に朝鮮遠征を敢行。1802年には、南満州全域ならびに半島北部を支配下においた。

他方、西方では、戦時中の1800年にクリミア・ハン国がオスマン帝国に併合される、1805年には仏露同盟が締結されるなどの動きがあった。

1805年のアメリカ大陸(パッチ1.4植民地国家独立前)
1805年のアメリカ大陸(パッチ1.4植民地国家独立前)
1805年の新大陸。これまで各国の直轄領であった植民地が、半自治の植民地国家へと再編される。ロシア領では、まとまった植民地のあったアラスカとカリフォルニアがそれぞれ自治国家となり、メキシコ地域のバハ・カリフォルニア半島にあった2植民地のみが、直轄領として残された。
(最後の最後の1805年のところでパッチ1.4が公開されたので、この期に及んで適用。各国が分割していた新大陸は、一晩で植民地国家が入り乱れる状態に早変わり。なお、ロシア固有アイデアのマンパワーボーナスも100%から50%に弱体化されました。人的資源は65万→56万に)。

女帝Elizaveta I von Wettinの即位(1815年4月)
1810年、カスティーリャ攻撃の機会を見出せないロシアは、(することが無いので)残るヒヴァ・ハン国とリトアニアの打倒を計画。同盟国を攻撃し、両者を芋づる式におびき出す作戦を試みる。
(体制が変わり帝国主義CBゲットして、遠方の国にも自由に宣戦できるようになったので。)

まんまと誘き出された両国は次々と各個撃破されていき、1811年にはヒヴァ・ハン国が、次いで1815年2月にはリトアニアが滅亡、結果としてロシアに隣接していた全ての小国が併合された。また一連の戦争の最中、同じ正教国でありながら度々ロシアに敵対してきたロードス騎士団も、ロシアの属国となっている。

同年4月、一連の戦役の成功を見届けたツァーリAndrei V von Wettinは、37年の在位の末に死去。娘のElizaveta I von Wettin (3/2/0) が女帝として即位した。

1820年のロシアとユーラシア大陸
1820年のアメリカ大陸
1820年のヨーロッパ
スコア画面
15世紀、欧州の片田舎、東方の中堅国でしかなかったモスクワ大公国は、300年の時を経て世界最大の国土(プロヴィンス数的な意味で)と生産力、それに世界2位の陸軍を持つ、世界有数の大国へと成長した。だが、クリミア半島を支配するオスマン帝国と、中欧に立ち塞がるカスティーリャ-ポーランド連合王国という外敵を抱えたまま、激動の19世紀に突入しようとしていた。
しかし、緩衝国が全て滅んだ今、未だ拡大を続けるロシアが彼らと対決する日は遠く無いであろう。女帝Elizaveta Iの治世に幸あらんことを…。


後書き

というわけで、300年お疲れ様でした。後半同じ展開の繰り返しで盛り上がりに欠けたのと、結局東欧で史実領土を達成できなかったのが失態でした。包囲網が(強さ的な意味ではなく、一度にちょっとずつしか領土が削れないという点で)最大の敵。というかこんだけAggressive expansion溜まる戦いを繰り返してるのに、史実領土に到達しないとか史実ロシアどんだけ拡張してんだよ(´Д`)

なお、パッチ1.4ではそもそもAggressive expansionが上がりにくくなっているらしいので、同じように正面からぶつかっていくプレイでももっとやりやすくなっているのかも?(逆に裏技的な属国を使った領土拡大ができなくなっている?)
あと最後に登場した植民地国家の仕組みも面白そうで、またゲームバランス的にもだいぶ影響があると思われる。

プレイ中に、日本語版発売(予定)元のサイバーフロントが解散して発売中止(!?)、とかいう悲報もあったものの、EU4はEU3よりもだいぶ良くなっている名作だと思うので、もっと多くの人にプレイされるべき。
言葉の壁はあるものの、Steamとかでよく50%OFFキャンペーンとかやってるので、興味のある方はぜひプレイしてみてください。ではではノシ


>>第1回 1444年~1485年 ルーシ諸侯の統一
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Tag: EU4 ゲーム

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